人はなぜ、働くのだろう。
お金のため? 生きるため? 誰かの期待に応えるため?
きっとそのどれもが、正しくて、でもほんとうではない。
私にとって「働く」とは――それは、祈りのかたちなのだと思う。
祈りとは、目に見えないものに向かって、自分の時間や魂を捧げる行為。
働くことも、似ている。
私たちは朝に目を覚まし、まだ冷たい空気の中に一歩踏み出す。
誰かのために、まだ見ぬ誰かのために、
時には自分すら忘れて、手を動かし、心を動かす。
それはまるで、日々の祈り。
無意識のうちに、「世界が少しでもよくなれば」と願っているのかもしれない。
働くとは、命の延長線
働くという行為は、心臓の鼓動に似ている。
止めるわけにはいかない。
リズムが乱れれば、全体が揺らぐ。
だけど、意識しすぎれば苦しくなってしまう。
生きることが呼吸なら、働くことは循環だ。
与えること。受け取ること。
誰かの暮らしに自分の時間が溶けて、
自分の暮らしに誰かの時間が流れ込む。
たとえどんな仕事であっても、
それが誰かの役に立っているならば、そこには「命の延長」がある。
生きることの意味は見えなくても、
働くことで「生きている感触」は手に入る。
それが、働くということの静かな奇跡だ。
働くとは、自分という種をまくこと
人は働きながら、自分という名の種を蒔いている。
それは、土に還るような行為かもしれない。
今すぐには芽が出ないかもしれない。
でも、たしかに何かが根を張っていく。
働いたあと、疲れた身体を横たえるとき、
ふと胸に残るのは「誰かに触れた」という微かな実感。
笑ってくれた声。感謝の眼差し。
それはすべて、自分という種が、誰かの心に残した風の痕跡。
働くとは、自分を減らすことではなく、
世界の中に自分を「溶かす」ことなのだと思う。
働くとは、孤独をつなぐ橋
ときに、働くことは孤独だ。
自分のしていることが、誰の役に立っているのかわからなくなる。
評価されない日も、報われない夜もある。
でも、それでも働くのは、
どこかにいる誰かと、目に見えない橋をかけているからだ。
「ありがとう」と言われなくても、
誰かの生活のどこかに、あなたの影がそっと寄り添っている。
それは、たった一人でも確かにつながっている証。
働くとは、孤独に意味を与える行為。
誰かの孤独と、自分の孤独を、そっとつなぐ架け橋。
だから私は、今日も手を動かす
どんなに虚しくても、
どんなに繰り返しに見えても、
働くことは、人生の祈りのひとつの形だと思う。
私は名もなき詩人。
華やかな成果も、大きな肩書もないけれど、
それでも私なりの「働く」がここにある。
今日という日を、一滴の詩にして。
誰かの心に、ほんの少しの風が届けばいいと願いながら。
アナタにとって、「働く」とは、どんな音を持つ言葉ですか?